第十七話

 柴沼という沼は鮒釣り達の間では有名で、日曜日には近隣から釣り人が集まってくる。時にはヘラブナの尺物があがるのだ。

沼のほとりの「柴沼屋」には釣り餌から竿や仕掛けまで一通りが取り揃えてあり、店の壁には魚拓が所狭しと貼られていてまるで釣り具屋と見紛うばかりだが、実はここの一番の収入源は店裏の桟敷屋で酒や簡単な料理を振る舞うことだった。

柴沼が一望できるその桟敷に上がるのは年中無料であり、駐車場脇の階段からも自由に出入りができる。夏ならば釣り人たちが中休みにここに上がってビールを飲むのだ。

壁に貼られた日に焼けて色の薄くなった生ビールのポスターには、一昔前のアイドル歌手がはち切れそうな水着姿でウインクしていたが、今はまだ冬であり小さな石油ストーブしかない寒い桟敷に人影はなかった。


 博史と信一は沼に着くと釣りもせずにすぐ柴沼屋の桟敷に上がり込んだ。

「実は女子棟で仲良くなったヤツがいてさ、佐藤由佳っていうんだけど...そいつもあとでここに来るよ。」

ストーブの上で手を擦りながら信一が言った。

「えっ...そうなの...?」

博史は一瞬戸惑った。

信一はもしかしたら脱走のことを忘れてしまったのだろうか...。
それともあの時の話はただの冗談だとでも思っているのか...。

「...俺、今日は信ちゃんと脱走のことを話そうと思ってたのに...。」

博史は拍子抜けした顔で呟いた。もしその子が来るならば脱走の話を聞かれるわけにはいかなかった。

「由佳には話聞かれても大丈夫だよ。あいつも俺たちと一緒に脱走したいって言ってるんだ。」

「そ、そうなの......?」

博史は信一が脱走の話を忘れていたわけではなかったという安堵と、知らない女の子が一緒に来ることになるかもしれないという不安の混じりあった複雑な表情をした。

「その子ってホントに大丈夫なのかい?途中で裏切って先生に密告したりとかしないかなぁ...。」

博史には信一と二人でならどこに行ってもなんとかなるというビジョンがはっきりと見えていたのだが、そこに女の子が入ってくるとなるとその映像は急にぎこちない物になってしまう。

むしろその子が足を引っ張って暁園の養護士たちに追われて捕まってしまう映像が鮮明に頭に浮かんでそわそわした。

「大丈夫...。あいつはタンザキに悪戯されてたんだ。裏切らねぇよ」

信一がポツリと言った。

タンザキというのは「棚崎」という苗字の暁園の用務員であり、子供たちが何かを壊したりするとすぐに頭をひっぱたいたりする短気な男で、園の子供たちからは男女問わず煙たがられていて、信一が彼にひっぱたかれたのを博史は何度か見たことがあった。

「イタズラって......?」

博史の中では悪戯というのは大人を困らせるための子供の遊びとしか認識されていなかったから一瞬キョトンとしたが、信一の顔が怒りに曇るのを見て即座に、きっとタンザキは彼女に大変なことをやったに違いないと確信した。

「俺からヒーローに話されるのは嫌だってから由佳に直接聞いてくれよ。」

と信一は言った。