第二章「暁」

第七話

 腕や顔にたくさん縫い傷のある中山博史を見て、暁園の子供たちはすごいヤツが入ってきたと噂していたが、まさか彼があの事件の当事者だとは誰も気づいていないようだった。

 暁園は孤児を養護するための小さな施設で、子供たちは昼間普通の学校に通い、学校が終わると暁園に帰ってきて寝食を共にする。男子棟には小学六年の博史と同学年の子も五人いた。

世間を騒がせた殺人事件の当事者が入園するなどということは暁園にとってもかつてないケースであり、児童相談所との話合いで、トラウマがある程度回復するまでは博史を小学校に通わせることを避けることが決まっている。

実際転入先は隣町とはいえ事件が起こったのと同じ地域の小学校であり、今傷だらけの博史が転入すればきっと事件のこともすぐにわかってしまうだろう。

イジメの問題やマスコミからの逃避の問題も考えれば、博史を小学校に通わせるのは早すぎる。
暁園側としても、博史は一年留年させてでもゆっくり精神的なケアをしたほうが良いだろうと判断した。


 入園早々六年生男子の班長である野上信一が博史にさっそく話しかけてきた。

「よう中山、ヨロシクな!」

ニコニコしながら博史の肩を叩き

「俺は野上信一ってんだ。ここの六年の班長やってるからわかんないことはなんでも聞いてくれよ!」

ニカッと黄色い歯を見せて笑いながら信一は胸を張った。

下を向いているところにいきなり後ろから肩を叩かれたので、博史はビクッとしてちらりと信一を見たが、その後はまたずっと一人で黙って俯いていた。

友達なんて作る気分じゃなかった。

「チェッ......」

と不満げな顔をして信一は博史のそばを離れた。

信一に対する反応を興味津々で見ていたほかの子たちも、これがきっかけで博史に話しかけづらくなってしまい、それから一週間ほど博史はほとんど誰とも話をしないで過ごした。

第八話

 夜になると子供たちは三人づつ部屋に別れて寝る。
寝る前のこの時間は学校での出来事や一日の不平不満をルームメイトと共有できる貴重な時間なのだが、輪の中に入っていけない博史にとってそれは苦痛以外の何ものでもなかった。

自分は学校にも行っていないし、皆と話が合うわけがない。 
いつまでも一人で部屋の隅に座り黙って目をつむっていた。


 博史は自分が父と知らない男を殺した痛手からはもうとっくに立ち直っていた。
しかし、母が死んだ事実を受け入れることだけは難しく夜ごと布団の中で啜り泣いた。

大好きだった母さんはもう、この世にはいない...。
それなのに親戚もおばあちゃんも誰も自分を引き取ってはくれなかった。

でも、そんなことはどうだっていい。
はじめから母さん以外に愛されてるなんて思ってもいない。
だから恨んだりなんか全然しない。

ああ......母さんさえ死なずにいてくれたら。

家が貧乏でも、父さんが酒乱でもなんでもいい...。
母さんが戻ってきてくれるなら...。

たった一人の自分の味方。
たった一人自分が愛していた人。

......どうしてあんなひどい事が自分のところにだけ起こったんだろう。
自分はなんて悲しい境遇なんだ。

きっとマンガの主人公たちですらこんなにひどくはなかっただろう...。

ひっくひっくと喉を鳴らせてひとしきり泣いた後、疲れて眠りに落ちる間際に博史の耳に必ず入ってくるのは他の子供たちの同じような啜り泣きだった。

皆両親も身寄りもない子供たちであり、普段は明るく振る舞っていても実はそれぞれに堪えきれない涙があったのだ。

頑なに閉ざされていた心の扉が、自らが毎晩流す涙と周りの子たちが流す涙の相乗効果によって少しずつ開いてゆくのを博史は感じはじめていた。

第九話

「おいヒーロー!見ろよ外が真っ白だぞ!!」

信一がロビーのカーテンを開け博史に向かって大声で叫んだ。

「うぁ、ホントだぁすごい......」

博史が信一に返す。
他の子たちも外の雪景色を見て感嘆の声をあげた。


暁園に入園してから三ヶ月、博史は周りの子たちにすっかり溶け込んでいた。

夜中に泣く癖だけはまだあったが、普段は皆に交じって普通に遊べたし、テレビの時間には漫才やコントに大笑いしたりもできるようになった。
特に班長の野上信一は博史にとってすでに親友と言えるような友達になっていた。

博史は信一を「信ちゃん」と呼び、信一は博史を「ヒーロー」と呼んだ。

このニックネームは 「傷だらけのヒーロー」という人気ドラマのタイトルと、博史の「ヒロ」とをかけたものであったが、実際顔や手にたくさん傷跡のある博史にはあまりに直接過ぎるネーミングではないかと園の養護士たちは少し心配した。
しかしマンガやテレビのヒーローものが大好きな博史は、ちょっと照れ臭いけどホントは嬉しくて仕方なかった。

家ではずっと父を気にしてイヤホンでしかテレビの音を聴けなかったが、ここでは皆で笑いながら大きな音で楽しめる。母がいないことを除けば何不自由ない暮らしだった。

 信一は産まれたばかりの頃に両親に捨てられたらしい。
ごみ箱の中で泣いているところを近くに住む若い夫婦に発見され、その後は色々な施設をたらい回しにされて七歳の時に暁園に来た。

両親の愛情を全く知らない信一は、普段はとても優しくて頼りになる少年だったが、一度暴れ出したら手のつけられない狂暴なところがあった。

暁園の養護師たちは、そんな彼になんとか協調性と責任感を植え付けようと、敢えて六年の班長にして世話を焼いたが、それでもカッとなることがあるたびに信一はとことん相手をやっつけた。

おかげで年長の者でさえも信一にだけは気を遣うような番長じみた立場になり、同学年や年下の子たちは怖がってあまり近づかない。

そんな状態にさらに苛立つ信一だったが、博史とだけはなぜかやけにウマが合い、博史が来てからというもの信一は一度も喧嘩や揉め事を起こさなかった。

第十話

 博史は自分がここに来たいきさつを彼にだけは話してもいいと思った。きっと他の子たちはもし自分が殺人犯だということを知ったら会話すらしてくれなくなるだろうが、信一だけはなぜかそうならないような気がしていた。

夜のテレビの時間が終わって就寝前のくつろぎのひと時、博史は全てを話す決意をして
「大事な話があるから」と、信一をロビーに誘った。

 ロビーにはソファーに座って読書ができるスペースがあった。まだ何人かの子供がそこで本やマンガを読んでいたが、真ん中のソファーにいきなりどっかり腰を下ろした信一が、わざとちょっと大きな声で

「じゃあ皆がいなくなったら話をはじめようか」

と言うと、バツの悪そうな顔をしながらそれぞれが本を片手に部屋に戻っていった。信一はそれを見てクスクス笑いながら博史にウインクしたが、博史の目はもう笑ってはいなかった。

ロビーに誰もいなくなったのを見計らって待ち兼ねたように博史が唐突に切り出した。

「信ちゃん......俺さ、実は人殺しなんだ」 

しばらくの沈黙が流れる。

「......はぁっ??」

考えてはみたもののやっぱり言っている意味がまるでわからないというキョトンとした顔で信一は博史の顔を見た。

「いや......ホントなんだ、二人殺した」

「そ...そうか......その話詳しく聞いてもいい?」

「うん、そのためにわざわざここに来たんだ」信一の目をしっかり見据えて博史が言った。

「...で、誰を殺ったんだ?」小さな声で信一が聞いた。

「父さんと知らない男...」

「じ...自分の親父を殺したのか......?」信一は少し声をうわずらせた。

「父さんが母さんを殺したんだ...知らない男は母さんの......」そこまで言って博史は黙り込んだ。

「......コレか?」信一が親指を立てた。

「コレって...?」博史にはその意味がわからなかった。

第十一話

信一はよく大人びた言葉や表現を使う、それが博史には頼もしかった。

「知らねーのか...?愛人てことだよ」

「それは...よくわかんないけど......母さんとソイツが抱き合っててそれを見た父さんがバットで殴ったんだ」

「お袋のほうをか?」

「いや...その男を狙ったみたいだけど、外れて母さんの頭にバットが当たって母さんが倒れた...」

「......そんでお袋さん死んじまったの?」

また少し沈黙があって博史は力無く頷いた。

「......でもヒーローはなんで親父まで殺したんだ?悪いのは浮気相手の男じゃんか」

「悪いのはみんな父さんだよ!!」

博史は突然大きな声を出した。

「アイツはホントに酷い奴だったんだ!!」

シーッと人差し指を口に当てて信一が博史を制した。
自分の父親がどんなに悪い奴だったのかを博史は必死になって信一に説明した。

全く働かず、金はみんな酒を呑んで遣ってしまうこと。
自分のお年玉さえみんな持っていかれたこと。
母親や自分に対する暴力。
テレビはイアホンをつけなければ見れなかったこと。
毎日ビクビクしながら生活してたこと......。

話しているうちに博史の瞳からは涙がポロポロこぼれてきて、声もドンドン大きくなった。

「ヒーローっ!おいっ、落ち着けよ!!」

信一が博史の口に手の平を押し当てた。
ふぅ~ふぅ~っと、鼻息を荒げながら博史は黙った。 

「みんなに聞こえちまうよ!」

「...ゴメン......なんか思い出しちゃってさ......」

博史は泣きながら少し笑った。

「...で、どうやって親父たちを殺した......?」

「男と父さんが取っ組み合いしてるトコを包丁で刺した。何度も刺したんだ。背中から包丁を引っこ抜く時に自分の顔や手もいっぱい切ったんだ。もうどっちを刺してるのかもわからなくなってきて、その後のことは何も憶えてないんだ」

「...ヒーローの傷はその時のだったのか......」

信一は感心したような顔で博史を見た。

第十二話

「俺は捨て子でさ、親父もお袋もどんな顔だか知らねーんだ。今まで最悪に恵まれてないと思ってたけど、ヒーローに比べたらまだマシかもな......そんな親父だったら俺もすぐ殺してたかもしれねぇよ。ヒーローが悪いわけじゃない」

よかったぁ......やっぱり信ちゃんはわかってくれた。
博史は安堵のため息をついた。

「信ちゃんだけにはホントのこと話したかったんだ。だけどこのことは誰にも言わないで......知られたみんなに嫌われちゃうから」

「...ああ、誰にも言わないよ。もし誰かにバレてイジメられたら俺がみんなぶっ飛ばしてやる」

信一は握り拳を作って反対の手の平をパーンと叩いた。

その時ロビーから二階に続く階段をトントントンと慌てて駆け登る足音がした。二人は急いで階段を下から覗き込んだが、チラっと後ろ姿が見えただけでそれが誰なのかまではわからなかった。
二人は顔を見合わせたが、まさか大騒ぎして今の人物が誰だったのかを探し回るわけにもいかない。

信一は落ち込んだ顔の博史をなぐさめようと

「...大丈夫、もし誰かにこの話をした奴がいたら俺がぶっ殺してやるから」

と博史の肩を叩いたが、博史は気が気ではなかった。
もしこのことが皆に知れてしまったら、もうとてもじゃないけど暁園にはいられない。

どうしよう...

やっと皆とも仲良くなれて楽しくテレビも見られるようになったのに......さらにしょげ返った顔で俯いた。

「多分そいつ誰にも言わねーよ。俺がぶっ飛ばすって言ったのも聞いてたはずだし......それに、ここにいる奴らはみんななんだかんだ親には苦労してるからさ......」

信一はそう言いながらポケットに手を突っ込んでのらくろ風船ガムを取り出すと、包みを開け中のガムを割って半分を博史にホイッと投げた。

ピンク色の小さなガムはとっても甘かった。


舌先で風船を作ろうと何度も挑戦するが、ガムが小さすぎてなかなかできない信一に博史は

「なぁ信ちゃん、もしこれがみんなにバレちゃったらさ...二人でここを脱走しない?」

と言った。

やっとのことで完成した信一の小さな風船がパチンと音を立てて割れた。

第十三話

二人の願いも虚しく、博史が実はあの事件の殺人犯だったという噂はたった2~3日の間に暁園全体に広がった。

博史に直接その話をする者はさすがにいなかったが、陰でこそこそと噂をされていることに博史が気づくまでにはそう時間はかからなかった。

「やっぱりバレた...。」

博史は泣きそうになりながら信一に告げた。

信一は逆上してすぐに片っ端からその話は誰に聞いたんだと問い詰めまわったが、噂で聞いたという答えしか返って来ない。もうすでにほとんどの子供が知ってしまっているこの状況で噂の発信源を突き止めるのには無理があった。

それでも信一は中学生にまで突っ掛かって詰め寄り、しまいには二つ上の中学二年生と殴り合いのケンカになってしまった。

騒ぎを聞き付けた職員がケンカを止めに入ったが、信一の怒りはまだおさまらず、職員に羽交い締めされたまま大きく振り上げた右足は相手のアゴにクリーンヒットして彼は前歯を折ってしまった。

「オイッ!ヒーローの噂流した奴はこんなもんじゃ済まさねーからなっ!!」

遠巻きに見ていた子供たちを睨みつけて信一は大声で怒鳴った。


 騒ぎの翌日小学生担当の養護士である新井百合子は、皆が学校に行っている時間に博史を会議室に呼んだ。

「博史君...あなたの事件のことがみんなの噂になってるようね...。」

「うん...。」

午後の会議室には西窓から太陽の光がいっぱいに入ってきていて、二月だというのに部屋はストーブなしでも暖かい。

「信ちゃんはあなたのことでケンカになっちゃったのよ...。」

彼女は細い銀縁の眼鏡を外しながら、ふぅ...とため息をついた。

「ねぇ...信ちゃん今どこにいるの?昨日から部屋に帰って来ないけど...。」

博史は心配そうな顔で聞いた。

今日は平日で信一は学校に行かなければならないはずだ。どこかから学校に行ったのか...今夜は帰ってくるのだろうか...。
自分のせいで親友が大変な目にあっているというのは辛かった。

「信ちゃんは女子棟から学校に行ってるのよ。ケンカ相手の敏行君が前歯を折っちゃってね...。そのまま一緒にしとくとまたケンカするかもしれないからしばらくは離しておくしかないわね。」
「...あなたが来てからあの子一度もケンカしてなかったのに...。」

「ごめんなさい...。」

博史は悲しくなって目を伏せた。

「ううん......あなたが悪いわけじゃないわ。ただ、あんな大きな事件をあなたが起こしたっていう事にみんなびっくりしちゃってるのよ...。」
「だからもし周りから色々言われても許してあげてね。みんな事情があって両親から離れた子たちなの。みんなを仲間だと思ってあげてね。」

仲間...仲良くなった子も何人かいるし一緒にテレビを見たりゲームをしたりもするし、遊んでるときはたのしい。
でも...でも仲間ってのは...そういう友達のことなのかなぁ...。

「うん...わかった...。」

百合子には素直に頷いたものの博史は何かがしっくり来なかった。

「いい子ね...。」

微笑みながら博史の髪をくしゅくしゅっとして百合子は職員室に戻った。

第十四話

 博史との約束を守るために中学生にまでケンカを売って女子棟に飛ばされた信ちゃん。
彼こそ「傷だらけのヒーロー」そのものだった。彼はきっと博史にとって本物の仲間だ。それは間違いない。

もし逆の立場なら信ちゃんのために自分も危険を冒すかもしれない。
しかし、じゃあいつも一緒に遊ぶマー君やヒデキのためにそれと同じことができるだろうか...。

...いや、きっとできない。

彼らだって信ちゃんのように自分のために体を張るような真似はしないだろう。
百合子先生はみんなを仲間だと思えと言ったけど、そんなに簡単に「仲間」だなんて思えるわけはなかった。

博史の頭の中で「仲間」というのは、ルパン三世と次元大介や石川五ェ門みたいな関係でなければならなかった。自分が主役の物語りを一人一人が生きている...。そしてそのドラマの中で「仲間」と「脇役たち」では役割が全く違うのだ。

自分の「人生」という物語りを素晴らしいストーリーにするために、そこにははっきりとした線引きをしなければならないはずだということを博史は漠然ながら強く感じていた。
しかし幼さ故にその思考はまだまとまらず、だから大人たちから諭されるありきたりな言葉には得体の知れない一抹の憤りを感じていた。


 結局信一は一週間以上男子棟には戻ってこなかった。

女子棟の中で男の信一が自由に部屋を出入りできるはずはないから、きっとずっと一人ぼっちでいるのに違いない。
博史はいつもの友達たちと遊んではいたが、信一のことを考えると何をやっても面白くなかった。

五~六年生の中では信一の話は禁句らしく、話題にさえ上らない。
それと同じに博史の事件のことについても気を遣ってか大っぴらには話題にならなかった。

しかし、博史のいないところで皆が噂話をしているのは明らかだった。よく遊ぶ二人もなんとなく腰が引けたような付き合い方をしているのがわかって、博史はいたたまれない気持ちになった。

やっぱり本当の「仲間」は信ちゃんだけだ...。
博史は本気で脱走計画を実行しようと考えていた。信一と一緒ならどこに逃げてもうまくいきそうだった。

...信ちゃんがこっちに戻ったらすぐに相談しよう。

べつに園から外出を禁じられているわけでもなかったし、風呂や食事にテレビまでついているこの環境は捨てがたいが、それでもなぜかここを脱走しないと本当の自由は手に入れられないような気がしていた。

第十五話

「ようヒーロー!元気にしてたか?」

ニカッとあいかわらず黄色い歯を見せて笑いながら、ポケットに手を突っ込んだガニ股で信一が廊下を歩いてきた。

「信ちゃん!帰ってきたんだ!!」

博史は目を丸くして驚いたが、すぐに事件のことを思い出し

「...ゴメンよ。俺のせいでこんなことになっちゃってさ...。」

と、またやるせない顔に戻った。

「馬鹿、ヒーローのせいじゃねーよ。ただアイツが生意気だからちょっとシメてやっただけじゃんか」

信一は周りの子にも聞こえるような声で笑いながら威勢よく言った。
結局、信一は今回の件で班長を降ろされ、信一の代わりにヨッシーと呼ばれている六年生の中で一番学校の成績のいい少年が班長になっていた。

「俺ぁもう班長でもなんでもねーからいい子ちゃんにしてる意味もねーし、いつでもリベンジしてやるからなっ!」

信一は中学生のいる部屋のほうにむかってわざわざ大きな声で言った。


 博史はすぐにでも信一に脱走の話を持ち掛けたかったが、今度こそこの前のように誰かに聞かれるわけにはいかなかった。
明日は日曜日だから信一を誘って外に遊びに出て、そこで脱走の打ち合わせをしよう。
園の中ではいつもどおり振る舞って、誰にも勘づかれないようにしなきゃ...。


夕飯のあとテレビの部屋に行こうとした博史に信一が手招きした。

「ん?」

博史が近づくと信一は

「ヒーロー...明日二人で釣りに行かないか?話したいことがあるんだけどここで話すのはもうコリゴリだからさ...。」

と小さな声で笑いながら言った。

「行こう行こう!俺も話したいことが一杯あるんだよ...。」

博史も笑いながら頷いた。

やっぱり考えることは同じだな...。
きっと信ちゃんも脱走の計画を練っているのに違いない。
明日は細かいことまでちゃんと打ち合わせて、早くここを脱出して信ちゃんと二人で自由気ままに生きよう...。

第十六話

 朝六時半、いつもなら養護士に起こされてもなかなか起きない二人はぱっちり目を醒ましていた。七時にはもう朝食を済ませて釣り竿とバケツを持って受付に向かった。

 暁園では児童たちに毎月決まった小遣いを渡していて、支給品以外のものは小遣いを貯めて自分で買わせるようにしている。六年生の小遣いは月額1500円。

あまり外に出ない博史の財布の中には今7000円余りが入っている。
信一はいつも学校帰りに寄り道して他の悪ガキたちとインベーダーゲームをやったり駄菓子を買ったりするので、財布にはもう430円しか入っていなかった。

 本来は受付で行き先をノートに書いて「五時までには帰ること」という欄に署名をすれば基本的に外出OKなのだが、ケンカで別棟送りになったばかりの信一を見て受付の事務員は

「ちょっと待ってなさいね、今園長先生に聞いて来るから」

と席を外した。

「チェッ、なんで釣りに行くだけでエンチョーに聞かなきゃなんねーんだよ!」

信一は苛だちを隠せずに下駄箱を思い切り蹴飛ばした。
事務員はなかなか帰って来なかった。

 博史は、もし外出許可が降りなかったらどうしようと気を揉んでいたが、やっとのことで戻ってきた事務員は

「気をつけていくのよ。今は子供の交通事故が多いんだから...。」

と言った。

よしっ、まずは第一関門突破だ!
二人とも胸の中でグッとガッツポーズをとって頷くとゆっくりと受付に背を向けて歩き出した。そして背中に事務員の視線を感じながらそっと正門をくぐり抜け、門を出た途端に「わぁ~っ!」と声を上げながら二人は全速力で走り出した。

大人たちに何かを押し付けられるのはまっぴらだった。

この門を出てしまえば外は自由の街だ。

そしてこの道は日本全国に繋がっていて、俺たちは自由にどこにでも行けるはずなのだ。

第十七話

 柴沼という沼は鮒釣り達の間では有名で、日曜日には近隣から釣り人が集まってくる。時にはヘラブナの尺物があがるのだ。

沼のほとりの「柴沼屋」には釣り餌から竿や仕掛けまで一通りが取り揃えてあり、店の壁には魚拓が所狭しと貼られていてまるで釣り具屋と見紛うばかりだが、実はここの一番の収入源は店裏の桟敷屋で酒や簡単な料理を振る舞うことだった。

柴沼が一望できるその桟敷に上がるのは年中無料であり、駐車場脇の階段からも自由に出入りができる。夏ならば釣り人たちが中休みにここに上がってビールを飲むのだ。

壁に貼られた日に焼けて色の薄くなった生ビールのポスターには、一昔前のアイドル歌手がはち切れそうな水着姿でウインクしていたが、今はまだ冬であり小さな石油ストーブしかない寒い桟敷に人影はなかった。


 博史と信一は沼に着くと釣りもせずにすぐ柴沼屋の桟敷に上がり込んだ。

「実は女子棟で仲良くなったヤツがいてさ、佐藤由佳っていうんだけど...そいつもあとでここに来るよ。」

ストーブの上で手を擦りながら信一が言った。

「えっ...そうなの...?」

博史は一瞬戸惑った。

信一はもしかしたら脱走のことを忘れてしまったのだろうか...。
それともあの時の話はただの冗談だとでも思っているのか...。

「...俺、今日は信ちゃんと脱走のことを話そうと思ってたのに...。」

博史は拍子抜けした顔で呟いた。もしその子が来るならば脱走の話を聞かれるわけにはいかなかった。

「由佳には話聞かれても大丈夫だよ。あいつも俺たちと一緒に脱走したいって言ってるんだ。」

「そ、そうなの......?」

博史は信一が脱走の話を忘れていたわけではなかったという安堵と、知らない女の子が一緒に来ることになるかもしれないという不安の混じりあった複雑な表情をした。

「その子ってホントに大丈夫なのかい?途中で裏切って先生に密告したりとかしないかなぁ...。」

博史には信一と二人でならどこに行ってもなんとかなるというビジョンがはっきりと見えていたのだが、そこに女の子が入ってくるとなるとその映像は急にぎこちない物になってしまう。

むしろその子が足を引っ張って暁園の養護士たちに追われて捕まってしまう映像が鮮明に頭に浮かんでそわそわした。

「大丈夫...。あいつはタンザキに悪戯されてたんだ。裏切らねぇよ」

信一がポツリと言った。

タンザキというのは「棚崎」という苗字の暁園の用務員であり、子供たちが何かを壊したりするとすぐに頭をひっぱたいたりする短気な男で、園の子供たちからは男女問わず煙たがられていて、信一が彼にひっぱたかれたのを博史は何度か見たことがあった。

「イタズラって......?」

博史の中では悪戯というのは大人を困らせるための子供の遊びとしか認識されていなかったから一瞬キョトンとしたが、信一の顔が怒りに曇るのを見て即座に、きっとタンザキは彼女に大変なことをやったに違いないと確信した。

「俺からヒーローに話されるのは嫌だってから由佳に直接聞いてくれよ。」

と信一は言った。

第十八話

 トントントンと軽やかに鉄骨階段を昇る音が聞こえた。

「......来たぞっ」

信一はニカッと笑った。

佐藤由佳は背が高く長い黒髪の少女で、前髪が真っ直ぐに切ってあって博史と同じ六年生にしては随分大人びて見えた。
彼女はストーブの前にしゃがんでいる信一に気づき、軽く手を挙げると二人のほうに向かって歩いてきた。

博史は暁園に入る前までは同級の女の子と話すこともあったが、入園してからはほとんど外出もしなかったし、学校にも通っていなかったので、久しぶりに女の子を間近に見てドギマギした。

「ねぇ...あなたがヒーロー?」

近づくなりいきなり由佳にまっすぐ目を見て話しかけられた博史は顔が真っ赤になった。

「う、うん...。」

「傷、カッコイイじゃん。」

言われて更に赤くなった。

「ヒーロー照れんなよ。可愛いだろ?こいつが由佳だよ。」

信一が博史の背中をバンと強く叩いて笑った。

「あ...タ...タンザキに...なんか...あれ...イタズラ...。」

博史は恥ずかしさをごまかすために話題を変えたくていきなり話を切りだそうとしたが、どもってしまい最後はむにゃむにゃと聞こえないような小さな声になってしまった。

由佳は信一の顔をキッと睨んで

「あなた、話したの?」

と強い口調で尋ねた。

「は...話してねーよ!お前に直接聞けって言っただけだって...。」

信一が慌てて言った。

「そう、ならいいけど...。」

由佳はちょっと安心した優しい顔になった。

その時桟敷に冷たい風が吹きこんできて由佳の長い髪は揺れ、冬の遠い陽射しが逆光になって彼女の着ている白いセーターの毛糸の毛先を光らせた。

「寒い...。」

由佳もストーブの上に手をかざし三人はストーブを囲んで丸く並んでしゃがんだ。

「タンザキの奴...あいつホントにどうしようもない馬鹿オヤジなんだ...。」

由佳は寒さに赤くなった手をストーブの上で擦りながら話しはじめた。

「あいつパパの同級生だったの。私のパパとママは交通事故で一緒に死んじゃってね。他に親戚が誰もいないから私はあいつの紹介で暁園に入ったの...。」

「由佳の母ちゃん女優だったんだぜ。事故のことテレビのニュースでも流れたんだってさ。」

信一が横から口を出した。

「信一!今話してるんだからちょっと黙っててよ!」

由佳はまた信一を睨んだ。

「へいへ~い...。」

信一はつまらなそうに口を尖らせて黙った。

「でね...タンザキは家族がいない私の保護者ってことになったんだけど、アイツそれを恩に着せて私にいやらしいことをするようになったのよ。」

「ひどい...。」

第十九話

博史はタンザキがあの細い目を嫌らしくさらに細めてケケケと笑いながら由佳の尻や胸をまさぐる妖怪じみた姿を想像した。

「はじめは仕方なく我慢してたんだけど、そのうち変態みたいなことをするようになってきて、あんまり気持ち悪かったから思いっ切りアイツの股ぐらを蹴っ飛ばしてやったわ...。」

「......」

博史の脳裏には今度は由佳が桃レンジャーよろしく空中からドロップキックしているシーンが浮かんだ。

「アイツ死にそうな叫び声をあげてその場に座り込んだから私はその隙にすぐ逃げ出したんだけど、そしたら次の日から私が一人でいるとこを見つけると、必ず陰に引っ張ってって思い切り叩いたり蹴ったりひどいことをするようになって...。」

由佳は履いている白いハイソックスを片方足首までずらすと白い脛には無数の内出血があった。

「もう、体中こんな感じなの...。」

由佳の瞳には涙が薄っすら滲んでいた。
長い睫毛を何度もパチパチとさせて彼女は泣くのを堪えているようだった。


「ふざけやがって、マジでアイツぶっ殺してやりてーよな!」

信一がまた口を挟んだが、由佳は今度は信一を睨まなかった。

「そのことはもう先生には言ったの...?」

博史が聞いた。

由佳は力なく首を振った。

「先生になんか言ってもダメ...。タンザキは理事長の弟だから先生たちもアイツには何も言えないのよ。前に五年生の子がアイツに叩かれて鼻血出して倒れちゃった時も結局もみ消されて何も問題にならなかったしね...。もう脱走するしかないわ...。」

「ヒーロー、いいだろ?由佳は悪いことなんにもしてないのに大人の都合で嫌な思いしてるんだ。仲間に入れてやろーぜ」

信一が博史の背中をまた軽く叩いた。

「...そんな状況じゃ早くどこかに行かないとタンザキにまたなにされるかわからないもんなぁ...。」

博史は頷いた。

「ありがとう」

由佳がニッコリ笑った。とても優しい顔だった。

大人たちの勝手のせいで暁園に来た子供たちが大勢いるのに、更にその子供にひどいことをする大人がいる。そして先生たちさえそれに目をつむっているということに腹が立った。

由佳にはいつもこういう優しい顔でいてほしいが、今の暁園ではそれは無理だった。

「実はさ...。」

信一が声をひそめた。

「女子棟の裏に用務員室があって、そこにタンザキの金庫があるんだよ...。金庫って言っても手で持てるくらいのやつで中には金が一杯入ってるんだ。由佳が前にそこから金を出してるのを見たんだ...。なぁ由佳?」

信一は由佳を見た。

由佳は頷いて言った。

「脱走するにはお金がいるでしょ?私、用務員室のスペアキーをもってるのよ。」

由佳は悪戯っ子のように笑いながらポシェットから小さな鈴のついた鍵を取り出してチリンと鳴らした。

三人は次の日曜日に脱走を決行することに決めた。

第二十話

 タンザキの金庫を盗むという行為は博史にとって罪悪感がないわけではなかったけれど、彼が由佳にしたことの代償としては安すぎるくらいのことだ。

金庫を盗み出せば次の日にはきっとバレてしまうだろうから土曜の夜金庫を盗み出し、日曜日の朝には受付に外出許可を取ってそこからどこかに逃げるのがいい。

実際にどこに行ってどういう生活をするのかという話まではまだ全然決まってなかったが、由佳の今の状態を思えばとりあえずこの暁園を逃げ出すことが先決であり、どこでどうやって暮らすのかということは逃げおおせて時間も金もある状態になってから三人でゆっくり話しながら決めればいいだろう。

タンザキは用務員のくせに管理がだらしなく、まだスペアキーが失くなったことにも気づいていないようだ。彼が土曜の夕方帰ったら、夜中にスペアキーでそっと忍び込んで金庫を盗みどこかに朝まで隠しておこう。

三人ともちゃんと脱出出来たら電車に乗って遠くに行くんだ。
誰も追いかけて来れないくらいの遠い街へ。

手持ちの金は三人合わせても15000円くらいしかない。タンザキの金庫が手に入らなければかなり生活は苦しくなるだろう。

絶対に失敗は出来ないぞ。

金庫の場所は由佳しか知らないが、さすがに女の由佳にそんな危ない橋を渡らせるわけにはいかない。当然信一か博史がやるしかないのだが、信一は女子棟送りから帰ったばかりで目を付けられている...。となれば適任なのはやはり博史だろう。


「俺がやるよ...。」

博史は自分から言った。
 
「おい、ヒーロー...大丈夫か?」

信一は心配そうな顔だ。

「あぁ...なんとかやってみるよ...。由佳、その金庫はどこにあるの?」

博史が聞いた。

「用務員室の入り口を入るとすぐ左側にテレビがあるんだけど、その横にプラスチックの衣装ケースが何個か積んであって金庫は一番上のケースの中にあるわ。多分洋服かなんかで隠してある緑色の手提げ金庫よ。」

博史は信一が自分のことでヤバイ橋を渡ってくれたことの恩返しをしたかった。

仲間とはそういうもんだと、博史は充分納得していた。

由佳とはまだ今日初めて会ったばかりだったが、すべてうまくいきそうな気がする。
まるでルパンと次元と峰不二子がお宝を盗み出す計画をたてているシーンそのものじゃないか。

主人公が悪の組織なんかに負けるわけはなかった。

第二十一話

 暁園に戻ってから信一と博史はなるべく一緒にいたり話をしたりするのを避けた。

もし何かのはずみでこの話がバレたら今度こそ全て水の泡だ。慎重に計画の日までを過ごすようにと三人は固く誓った。

博史は金庫をちゃんと盗み出せるかどうかを心配するよりも、とにかくワクワクしていた。だって、テレビドラマみたいな旅がこれから始まるのだ。

三人が真っ青に晴れた空の下をずっと向こうに霞む地平線を目指して砂漠の街を歩いていく姿が浮かんだ。
バックミュージックは西遊記のエンディングテーマ「ガンダーラ」。

なんて素敵な旅なんだろう...。


 週末までの何日かの間を、博史は暇さえあればそんな甘い幻想に浸って過ごした。
ずっと前、毎日のように家に帰らず一人で色々なことを想像していたあの頃の薄闇のニオイが懐かしく鼻をかすめた。しかし、あの頃感じていた淋しさはもうなかった。

今、俺には仲間がいる...。

あの頃の学校の友達なんかとは全然違う、一緒に旅をしながら生活を共にする「仲間」だ。
母さんは死んでしまったけど、家族同様の「仲間」を俺はやっと手に入れたんだ。

その「仲間」たちと、そこいらの子供たちには到底経験できないようなドラマチックな踏んだり蹴ったりをしながらどんどん成長していく。

未来を想像しながら希望に満ち足りた気持ちでいつの間にか博史は夢の中にいた。
夢の中で美しい母が博史を優しく抱きしめながら言った。

「さあ、そろそろ旅立ちなさい。あなたを待っている人がたくさんいるわ...。」

「母さん......。」

眠っている博史の目尻から流れ出た涙はいつもの夜泣きの涙とは違ってとても暖かかった。

それは果てしなく長い旅をしてきた旅人が、やっと故郷に戻れた時に流す熱い涙に近いものなのかもしれなかった。

第二十二話

 土曜の夕食の時にはわざと魚釣りの話ばかりをして、明日は朝早いからとドリフも見ないで二人ともそれぞれの部屋に戻った。

皆が寝静まるまでの間、博史は布団の中でずっと寝たふりをしていた。
満腹中枢が眠気を誘い、うつらうつらしてしまって辛かったが今夜だけは眠るわけにはいかない。

もうダメだと思っては起き上がり何度も便所に行って窓を開け冷気を浴びた。

 午前一時、寝静まった部屋で博史はわざと咳払いをしてみた。同部屋の二人はピクリとも動かない。

今だ...。

博史はそっと布団を抜けだしトイレに向かう。ジャンパーのポケットには小さな懐中電灯を潜ませてある。一旦トイレに入り外の様子を伺うため窓を開けてみた。

ヒュウゥ~...。

夜の冷気と一緒に窓から細かい白いものがたくさん吹き混んできた。

「風花だ...。」 

常夜灯に照らされた中庭は夜空を舞う風花の向こうに静まり返っている。

...よし、行こう...。

今度は口にださずに頭の中で呟いてトイレのドアをそっと開けた。
一階のロビーに続く階段は古い木で出来ていて降りるたびにミシッミシッと小さな音を立てた。
しかしこの寒さだ、物音で誰かが目を醒ましたとしてもわざわざ暖かい布団から出て廊下までは来ないだろう。

ピンクパンサーのテーマを頭の片隅で鳴らしながら博史はそっとそっとロビーまで来た。
玄関の鍵は信一が開けておく段取りになっていた。

ロビーは真っ暗で何も見えない。

懐中電灯を出してつけた。

「ワッ!?」

いきなり人影が浮かび上がりびっくりして博史は声を出してしまった。

第二十三話

「シーッシーッ!」

慌てて口元に人差し指をたてながら現れた影の主は信一だった。

「し...信ちゃん...。」

「悪ぃー悪ぃ...ちょっと寝ちゃってさ、今起きたんだよぉ...。」

小さな小さな声で言って、ばつの悪そうな顔で頭を掻く信一の姿があまりにも可笑しくて博史は「プッ」と噴き出してしまった。

緊張が一気に緩んだ。

「さぁ鍵が開いたぜ...。」

博史はさっそく外に出て信一を振り返りビシッと軍人のように敬礼した。

「いってまいります!」

「おたっしゃで!」 

信一も敬礼を返したが、その言い方が可笑しくて博史はまた笑った。


 小雪の舞う中庭を博史は走った。もう全然緊張はしていなかった。

用務員室までノンストップでたどり着き、入り口の鍵を開ける。入り口の周りは灯りもなくて、この雪の中人が来そうな気配はまったくなかった。

用務員室の中に入るとテレビの位置はすぐにわかった。由佳が言うにはたしか、その横の衣装ケースの中に洋服に隠して...。
テレビの横に並んで積まれた衣装ケースをふと見ると、洋服で隠すどころか積んであるケースの上に緑色の金庫がチョコンと乗っていた。

なんだ...。泥棒って簡単だな...。
戦利品をぶら下げて用務員室を出る。

雪はもう本格的な降りかたになっていたが、博史は今度はゆっくりと歩きながら男子棟に向かった。

水銀灯に吹雪いた雪が照らされてとても綺麗だ。 

「さようなら暁園...。」

口に出して言いながら博史は用務員室のスペアキーを中庭の隅に向かって放り投げた。

チリンという小さな鈴の音が冬の雪空に消えた。

第二十四話

 一面の雪景色...。

今年の冬はとびきり寒い。

博史と信一はもう支度を終えて白い息を吐きながら受付に向かっていた。
釣り竿を片手に、釣りに行くとは思えないほど大きなバッグを二人とも持っている。

洋服や身の回りのものは半分以上持ち出すのを諦めた。

持っていくのは一人バッグひとつまでという約束だったから。どうしても捨てられないお気に入りのものだけをバッグに詰め込めるだけ詰め込んだ結果がこのスタイルである。

受付にはまだ事務員が来ていなかったので、そっと正門の前まで行ってとりあえず木の影にバッグを隠した。地面の雪にはくっきり門までの足跡が残ったから、わざとあたりかまわず一面に足跡をつけた。

これで怪しまれはしないだろう。

 二人は受付のベルを押して事務員を呼んだ。
手をこすりながら事務員が出てきた。

「あらずいぶん早いわね。どこにいくの?」

「柴沼で釣りをするんだ。」

すかさず信一が言った。

「釣りってあなた...この寒さじゃ沼が凍っちゃってるんじゃない?」

「...いや...ほら...ワカサギっているじゃんか。あれは寒いほうがよく釣れるんだよ...。なぁヒーロー?」

苦しい説明だったが、話を振られて博史も同意しないわけにはいかない。

「うん...ワカサギは寒い日の朝早くと夕方に釣れるんだ...氷に穴を開けて...。」

「そう...大変ねぇ...。滑らないように気をつけなさいよ。」
「ねえ...ワカサギって天ぷらにすると美味しいのよね。釣れたらちょっと分けてよね。」

事務員が笑った。

ノートに行き先を書き込みながら

「ああいいよ。バケツ一杯釣ってくるから宴会の用意しときなよ。」

信一も笑った。


サインが終わると二人はゆっくりゆっくり後ろを気にしながら正門のところまで歩いた。
正門の前まで来て受付をそっと振り返ると事務員が手をこすりながら奥の部屋に入るところだった。

いくぞ!

正門脇の木陰から二人は大きなバッグを引っ張り出し急いで門を出てまたこの前のように「わぁ~っ!」と声を上げながら全速力で走り出した。

第二十五話

 あとは由佳が金庫を持ってちゃんと出発できれば待ちに待った旅の始まりだ。
信号を柴沼とは反対に曲がり、二人は常盤新田の駅のほうに歩いた。常盤新田は私鉄と国鉄の乗り継ぎ駅で、駅前は賑やかな商店街だ。

釣り竿は食べ物がなくなったら釣りをして魚を食べられるからという子供らしい発想でここまで持ってきたのだが、バッグがあんまり重くて

「なぁ...仕掛けはあるんだし、竿なんか竹でも拾って作ればいいからもうコイツ捨てていこうぜ...。」

信一が道路脇の薮に釣り竿を投げ棄てた。

「バッグも重いし仕方ないか...。気に入ってたんだけどなぁ...。」

物惜し気に自分の竿を眺めていた博史もついに意を決して竿を薮に投げ込んだ。

やっとバッグを持つのに両手が使えるようになったが、それでも由佳との待ち合わせ場所である常盤新田の駅前公園に到着した時には二人とも額に汗が滲んでいた。


 公園の広場にはまだあまり人影がなかったが、大きな段ボール箱を家がわりに使っている人々がたくさんいて、雪に半ば埋もれた段ボールの家は今にもへしゃげてしまいそうだった。

博史は一瞬自分達が金を使い果たしてこんな状況になったことを想像した。

ここに住んでる人たちは寒くて大変だろうなぁ...。

その時、段ボールのひとつから真っ白な髭を蓄えた赤ら顔の老人が這い出て来た。彼は頭から段ボールを出るとまたすぐ段ボールに頭を突っ込み、一升瓶を握りしめてまた外に出た。

髭の隙間から吐く息が煙りのように白く宙を漂った。

老人は一升瓶を逆さにしてひと口あおり、そのあと気持ち良さげに伸びをした。
博史はそれを少し離れたベンチからなんとはなしに見ていたが、不意に伸びが終わった老人と目が合った。

博史を見て老人は何かを見つけたような顔になり、一升瓶を抱えたまま二人のほうへゆっくり歩いてきた。
博史はドキリとして信一の肩を叩き

「ねぇ、あの人こっちに来る!」

と老人を顎で指し小さな声で言った。

第二十六話

信一は老人の方を見て

「...あっ!タケジィだ!!」

と叫んでニコニコしながら彼に手を振った。

「えっ?信ちゃん知り合いなの?」

「うん、タケジィはショーリンジケンポーの達人なんだよ。」

確かに言われてみればジャッキー・チェンの映画に出てくる呑んだくれの師匠のような風貌だ。

「オース!」

タケジィは信一ににこやかに話し掛けた。

「なんだ今日はこんな早くにどこか行くのかい?」

「うん、今から旅に出るんだ...。」

「旅...?そりゃいい。それでどこまで行くんだい?」

「行き先のない旅ってやつさ。」

と言って信一は博史を見て笑った。
タケジィは二人の大きなバッグをちらりと見て

「なるほど、本格的な旅らしいな...。ちょっと待ってろよ。」

と言ってまた段ボールに戻った。


「オーイ!」

ちょうどその時公園の入り口から白い毛糸の帽子を被った由佳が現れた。
時計は七時四十五分を指している。

「待ったぁ?」

由佳もやはり大きなバッグを抱えていた。

「荷物が重くて汗かいちゃったわ...。」

頬が紅く上気していた。

「由佳、金庫は?」

すかさず博史が聞いた。

「大丈夫。ココに入ってる。」

ニコリと笑ってピンクのバッグを指差した。

「...さて、どこに行くかだなぁ。」

信一が呟いた。

「とりあえず電車で新町まで出ない?話するにもココだと誰かに見られるかもしれないわ。」

三人が駅に向かって歩き出した時

「オーイ!ちょっと待てぇ!」

しわがれた声が聞こえた。
タケジィだった。

彼はまたゆっくり三人のところまで歩いて来て、

「こいつを持っていきな。」

と、薄汚れたビニール袋を信一に手渡した。 

「ありがとう!また戻ったときにはショーリンジケンポー教えてねっ」

信一は袋の中身も確認せずにバッグのポケットに突っ込み、三人はタケジィに背を向けて駅のほうへ歩き出した。


旅はもう始まった。


引き返すことができない不安はなかった。
彼らはただ眩しくて先の見えない未来だけを見ていた。

第二十七話

 バッグを抱えた三人は新町行きの電車に乗り込んだ。

まだ列車の客席でタバコが吸える時代であり、日曜日は競馬の開催日なので新町の場外馬券売り場に向かう客で早くも混みはじめていて、車内にはタバコの煙がモウモウと充満している。

三人の少し先の席でハンチングを被り耳に赤鉛筆を差した中年の男が眉根にシワを寄せながら競馬新聞を読んでいる。良く見ればその男はタンザキだった。

「ヤバい...タンザキがいる!」

由佳が小声で言って、三人の緊張は一気に高まった。

もし競馬の資金に金庫の金を使うつもりならタンザキは当然暁園に向かうはずだが、列車は逆の方向を向いている。ということはもしかしたらすでに金庫を取りに朝早く暁園に行き、そこで金庫がないことに気づいた後なのかも知れない。
深い眉間のシワがまるで金を失ってイライラしているようにも見えた。

用務員室で金庫を直接見たことがあるのはもしかしたら由佳一人だけなのかも知れない。

もし問い詰められてバッグを開けられたら荷物の一番上にあの緑色の金庫がチョコンと乗っているという状況は、彼にいたずらされたり暴力を振るわれたりを繰り返してきた由佳にとって最悪の想像を掻き立てるに充分な状況だった。

しかしタンザキはまだ三人には気づいていない。

由佳はバッグを握りしめ人混みに紛れながら彼とは反対側の車両に移動しはじめた。
二人も頭を低くして由佳に続いた。

三人は後ろを気にしながらもソロリソロリと隣の車両の一番奥にやっと辿り着いてホッと胸を撫で下ろす。

「危なかったぁ...アイツきっと新町で降りるから私達はもっと先まで行こう...。アイツと同じ駅で降りるのはちょっと危険すぎるわ。」

由佳が青ざめた顔で言って、二人も真面目な顔で深く頷いた。

 新町ぃ~新町ぃ~ お降りのお客様はホームと列車の間が大変開いておりますので、足元にご注意の上お忘れ物のないよう......。

電車はゆっくりと停まり、プシュ~ッと扉が開いた。
タンザキは案の定競馬新聞を片手に新町で電車を降り、ホームを三人のいるほうに向かってしかめ面で歩いてきた。

プシュ~ッ。

電車の扉が閉まる時にちょうど彼は三人の目の前のホームにいて、視線を感じてふと窓越しに車内を見た。

タンザキと目が合った由佳はすぐに真っすぐ彼を睨んで中指を立てる。
同時に横の二人は彼を見ながら思い切りあかんべぇをした。

「馬~鹿!」

「こ...このやろぉ......。」

タンザキの吐いた言葉は雑踏のざわめきに混じりながらほんの少しだけ車内にも聞こえたが、電車はすぐに動き出し、拳を振り上げた彼の幾分哀れな姿はホームの景色と一緒にゆっくりと後ろに流れて行った。