第一話
豆腐屋がプ~プ~とへしゃげたラッパを吹きながら、自転車の後ろにリアカーをくっつけてゆっくり住宅街を行く。そろそろ五時の鐘が鳴るころだ。
田んぼの上にはコウモリがパタパタと飛んでいて、すっかり紅く染まった夕暮れの空。まるで空だけじゃなく空気までが紅く染まってしまったかのようだ。
道路には長い長い影。
「逢う魔が刻」という言葉がこの時間帯を指す言葉だと知ったのは何かのテレビ番組だったか。交通事故や殺人事件が増える、人間の精神にとって不安定な時間帯だと言う。しかし写真や映画の用語ではこの時間帯を「マジックアワー」と呼ぶ。それこそ何かのテレビアニメで知ったのではなかったか。
夕陽や車のライトやネオン、雲と星と月、そして迫る闇......。色々な色が混じりあって、えもいわれぬ美しい色を空気自体が醸し出す不思議な時間。博史はこの時間帯が一番好きだった。
友達たちは五時になるとみんなソワソワしだして、一人、また一人と家に帰っていく。辺りの家からは一斉に夕餉のいい匂いが漂い出して、博史の腹もギューッと鳴り出す。
そして最後の友達が、
「じゃあまた明日ね」
と言って帰ってしまい、誰もいなくなったあとの一人きりの時間が博史は大好きだった。
空に藍の色が混じり出してから完全に真っ暗になって星が瞬き出すまでの間、博史はいつも腹ペコのまま一人もの思いに耽る。それは、時には近くの河原の土手であり、時には高台にある住宅街の丘の上であったり、神社の境内や公園の滑り台の上であったりもする。
彼がいつも決まって夢想するのは遠い遠い未来のこと。
博史の家は貧乏であったし学業もそんなに優秀なほうではなかったが、彼にはなんせ有り余る時間があった。10年後、20年後、30年後、40年後......更にその先まで。今の貧しい状況は生まれた時にたまたま用意されていただけの一時的な環境であり、そのうち自分が働き出せばすぐに金持ちになって、いくらでも夢は叶うはずだと信じるに足るだけの時間を彼は持っていた。
ほとんど毎日、真っ暗になるまで博史は家に帰らなかった。
2011年3月 7日 08:10 |カテゴリー: 第一章「傷」